打ちのめされた。 細部に至るまでじつによく取材して書かれている。 JAZZが米語譲りの泥臭い俗語として描かれる事実からもそれは窺われる。 そりゃ書かれた時代が時代だから言葉や書かれようはひどいよ。 現代の人権感覚に照らしてひどいとしかいいようのない箇所も多出する。 心臓を突き刺されたように感じる箇所や吐き気を催す箇所もやたらある。 何もこんなひどい書きようをしなくたっていいじゃないか、 と苦情を述べたくなるのも数カ所に留まらない。 ごく当たり前の人間を、 生まれないほうが幸福であったかのように捉えたり、 あまりにもあからさまな優生思想であったり。 でもそれは当時のありのままの現実に取材して書かれたのだとわかる。 そのような書きようもまた当時の日本人男性なりの誠実さだったのだ。 バドガールめいた意に沿わぬ扮装をさせられて占領軍から性暴力に遭うシュウマイ売りであったり、 優生思想を声高に訴え避妊法を説いて同性のセックスワーカから笑われるフェミニストであったり。 獅子文六は物事を、 人間をちゃんと見ている。 ほんとうのことをしっかり見て、 嘘をつかずに書いてある。 現代日本の作家にはこれがない。 できても出版が許されない。 これがわたしには腹立たしくてならない。 作家も出版人も恥ずかしくないのか。 七十年近く前の小説に、 あんたらの仕事は政治的な意識において遠く及ばないんだぞ。 シスジェンダーの中年男性であるわたしの主観でしかないけれど、 獅子文六は日本の作家でもっとも生身の女性を描くのがうまい。 美化することも貶めることもなく、 いいことも悪いこともありのまま、 地に足のついた、 生きるのに懸命な、 血の通ったひとりの個人として書いている。 人間の弱さ、 惨めさ、 哀しさ、 そこから這い上がるしたたかさを目をそらさずに書いている。 なぜ現代日本の作家は、 出版は、 それができないのか。 なぜ過去の偉大な作家にしかそれが求められないのか。 われわれはそのことを深く恥じ入らねばならない。 希望を窺わせつつも苦い結末はビリー・ワイルダー『アパートの鍵貸します』 を思わせた。 いつだって時代は若い男女につらく当たる。
