眠りが浅くてまともに起きていられない。 読みながら眠って目覚めたらつづきを読む。 どこから夢でどこまで実際に読んだのかわからなくなった。 しかしそもそも本書は何ひとつ現実ではない。 作り話なのだ。 小説には言葉のおもしろさと物語のおもしろさがあって、 どちらに偏ってもつまらない。 ナボコフは前者を志向しつつ後者の手管も巧みに援用する。 しかもただ用いるのではなくいったんバラして組み上げ直し、 より遠い場所へ到達するための曲芸的な手段へと変換する。 ノンフィクションと探偵もののジャンル手法を換骨奪胎、 なんだかわけのわからぬ怪物を生み出す。 とはいえ前半はいささか言葉の側に偏重して調子が鈍い。 歴史的大傑作 『淡い焰』 を先に読んでしまうと物足りなさは否めない。 愚作 『ぼっちの帝国』 ですらおなじことを娯楽のいち手法としてもっとこなれたかたちでやっている。 奇妙な人物が続々と現れて物語性に傾く後半から俄然、 おもしろくなる。 ナボコフ先生はご不満かもしれぬが小説はこうでなくてはならない。 わたしが気になるのは彼がこの小説を便座の蓋をおろして書いたのか、 それともズボンをおろして書いたのかだ (Wikipediaによればかの亡命作家はこの本を便座に座り、 トランクを机代わりにして書いたそうだ)。 『絶望』 にも通じる発達障害らしいオチのあと、 結びに至る文章は意図はわかるのだが文意がよくわからない。 早くいえば雑だ。 催して筆を急いだのではないか。 脱×のために慌てて脱稿したかのような印象がある。 思えばわれわれ読者には本がどこでどのように書かれたかなど知りようがない。 百万人が落涙し感動した傑作が案外、 排×しながら書かれたかもしれないのだ。 ちなみに 『プリズムの刃先』 では意味が通らないように思う。 『虹めくベゼル』 あたりが妥当ではないか。 発達障害特有の着眼と比喩のように感じた。 Lou Reed “Some Kind a Love” の有名な一節 “between thought and expression lies a lifetime” が本書の “the bridging of the abyss lying between expression and thought” からの引用だとわかったのは収穫だった。 なぜそのことをだれも言及しないのかわからない。