V.

聊斎志異を思わせる印象的なエピソードや描写笑いのセンスに魅力がありリーダビリティも高い反面それらの部分部分がまったくバラバラで技巧や一貫した論理でまとめる意思も感じられずそのため最後まで読んでも結局何をいいたいのか伝わらずバラバラや意図不明であることの必然性も感じられなかったいいたいことや必然性がなければならないことはないがそれはまた別の話だ)。 そしてエピソードの重ね方における技巧上の野心がなんだか途中で急に放棄されたかに感じられるやってみて飽きたみたいな長く書くうちに小手先のやりかたでは意味がないと気づいたみたいな第三作重力の虹のこなれていなさ加減に創作上の必然が感じられたのに対して処女長篇のこれは単純にまだ稚拙に思えた歪さがただのぎこちなさで終わった印象がある巻末のあとがきによればチャンドラーみたいに短篇をリサイクルしたとあるからそのせいかもしれないかといってそうしたあれこれが悪いかというとそうでもないその稚拙さは若さのあらわれとして感じられ主人公の片割れプロフェインの行状や悩みや迷走ぶりがきわめて二十代の若者らしく思われるのと分かちがたく結びついているはじめての長編小説を迷いながら苦しみながらそして楽しみながら書く青年が文章越しに見えるかのようだそういうメタ的な必然性があってそれがこの小説の魅力であるように思うだからほんとうはこの本は二十代のうちに若さの迷走に任せてひと息に読むべき物語なのだ難解との評判からなんとなく敬遠し五十近くなって衰えた集中力で個人的な懐かしさとともに読んでしまったお蔵入りにした約束の収穫やのちに書きなおした逆さの月』、 『崖マロといった初期の小説を試行錯誤しながら書いていた二十代を思いだした当然これは誤った読み方だでもきっと多くの読者に似たような筋違いの投影をさせてしまうだろう気恥ずかしい感傷がこの小説には確かにある聊斎志異みたいと書いたけれど主人公のもう一方の片割れステンシルは一人称が三人称だったり行動の叙述のされ方だったりがハメットのパロディのようだし勝手な憶測だが実際そのように意図ししかも途中で急に飽きたのではないか)、 謎を巡ってへんてこな人物やおかしなエピソードが連なるつくりは踊る黄金像みたいにも思われステンシルとプロフェインはディックとホースラヴァー・ファットのようでもある百科全書的とかいわれるけれどそんな大層なものとは思われなかった貶しているのではない懸命に作家になろうとする若者の悪戦苦闘がたまたまそのような結果を生みそれが好ましく伝わってくるということだそしていずれ二作目の単純でむだのない中篇を経て歪さを技術として自覚的に使いこなすのだろうと予感させる作品なのだ