沙羅乙女

処女と童貞ばかり出てくる恋愛小説である冒頭にいかにも昭和の父親らしいサイコっぽい描写がありちょっとひくのだけれどそういうのはすぐ終わるので我慢して読みすすめていただきたいそこから先はむしろ戦前の小説がどうしてこうも現代の感覚で読めるのかとふしぎになるくらいだ当時の職業婦人がおかれていた状況が現代のわたしたちにも推し量れる言葉で書かれているはっきりいえば当時の日本人男性は⋯⋯いやよそう察してください小津安二郎のスキーの映画なんか見るとカフェの店員なんかは安い売春婦くらいに思われていたのがわかる気になるのは結末の感動についてだ同時の社会では兵隊になってよその国で虐殺したり強姦したりするのが一人前の男性と見なされていたそれは祝福されることだったしそのようにして戦死して急ごしらえのカルトの洗脳装置であるサティアン的施設にまつられるのが尊敬される立派なことと見なされたそのカルトの人気は敗戦後も衰えを知らず政治家はことあるごとにその施設に詣でて拡大再生産に貢献しようとするほどだだからまぁ赤紙が届いたら実際に感動したんだろうなとは思うその辺の感覚は現代人には想像もできない⋯⋯いやどうだろう本気でそんなふうに考えるばかは当時よりむしろ増えてるのかもしれないな実際に痛い思いをした経験がないだけにでもこの小説でその言葉はどうもちぐはぐだ禍福はあざなえる縄のごとしを地で行くような物語の構成上作劇術の必然でどうしたってここは絶望的な悲劇として語られるはずの場面なのだどういうことかいかなる思いで書かれ連載時の新聞購読者に受容されたのかどう読んでも口実としての感動としか受け取れないあるいは当時の読者もまた理解して調子を合わせたのではないかという言葉になされぬ不穏な気配を感じるもっとも大半はそこまで読みとれず侵略を無邪気に礼賛する天真爛漫な読者だったろうが⋯⋯だいたいにおいて底本は学生運動華やかなりし69年の全集なのだから手が入っていておかしくないところだ実際悦ちゃんなどは明らかに戦後手を加えた形跡が見てとれるし本作のいつか理解されるはずの女性の生き方なんてくだりもさすがに現代的すぎるので全集出版時に直された疑いがある戦前にフランス人と結婚した作家だから最初からそう書かれた可能性もおなじくらいあるが)。 だからいくらでも改変する余地はあったはずなのにそれをあえて作家は感動なる不自然な描写を残した国策に協力した事実から逃れぬため当時の民衆のしたたかさを記録するためにあえて不自然な表現が残されたかにわたしには思える当時の若者にもいまと同様に身を立てようとする無我夢中の青春があってでもそれがGoTo満州的な無能かつ頭のおかしい政治によって無残にも踏みにじられた若い男女のささやかな夢であった小さいおうちは空襲で焼かれ兵隊にとられた菓子職人の青年はなんの装備も食料もなく密林を行進させられたあげく餓えと熱病で野垂れ死んだかもしれないし覚醒剤を打たれて虐殺と強姦に明け暮れたあげく爆死したかもしれないしあるいは部隊でひとりだけ死なずに帰還して腑抜けになって蔑まれながら生涯を終えたかもしれない主人公とその弟だって防空壕で抱き合いながら蒸し焼きになったかもしれないし焼夷弾に脳天を貫かれて火だるまになったかもしれないし全身に大やけどを負って屍体だらけの川に飛び込んで溺死したかもしれないのだがどうもそうはならなかったのではないかという気がする弟はどうか知らないが少なくとも女主人公だけは生き抜いて戦後の物資不足を知恵と努力としたたかさで乗り越えて青年の考案した新菓子はいまでも人気の銘菓として代々受け継がれているのではないかという気がするそうであってほしい