19年ぶりに読み返した。 内容をすっかり忘れていた。 大傑作だという印象だけがあった。 当時の記憶よりも大傑作だった。 打ちのめされた。 当時はヴァイナル盤が絶滅しかけていた。 クラブDJのようなごくかぎられたひとびとだけが利用する媒体だった。 ライオネルという主人公の名前がヴァイナルのように発音されるという意味がわからなかった。 そこには音楽的な意味があった。 なるほど彼は壊れたレコードのように、 あるいは攻撃的な押韻のように喋りまくる。 彼の独白にはおそらくさまざまな音楽からの引用が盛り込まれている (ルー・リードの歌詞とか)。 ブルックリンといえばヒップホップとは関わりの深い土地で彼の地口にはそうしたことも無関係ではないのだろう。 そして何より当時はまだおれは自分の発達障害への理解が浅かった。 近しいものを感じながらもよくできた変わり種のハードボイルドといった認識しか持たなかった。 そもそもハードボイルドという書き方 (それは文体の様式以外の何ものでもない) と発達障害は関わりが深い。 健常者には気取ったこだわりと誤解されがちな強迫性障害や、 社会不適合、 偏った視点、 他者への違和感。 自分にしか理解できない感傷。 それらは前頭葉の障害であってトゥレットとも関わりがあることが近年ではわかってきている。 おれ自身、 おれがチックを持っているというよりもチックがおれの主体なのではないかと思われる瞬間にしばしば見舞われる。 コントロールはできない。 そうしたことを臨床的に描きつつそれを通じて家族や記憶や人間への思いを描き、 そうすることとジャンルのお約束を忠実になぞることを両立させ、 それによってハードボイルドを発達障害者の回想録として、 家族の記憶として語り直すことに成功している。 どうやったらこんな曲芸を一片のあざとささえ感じさせずに直球の文学としてやれるのか理解できない。 母なしブルックリンたちの父たる人物は若くして読んだ当時はもっと大人に見えた。 中年になったいまでは野心も畏れもあまりにも若い街のあんちゃんに見える。 そして破れかぶれで彼の面影を追い求める主人公は当時思ったよりもまっとうな大人だった。 中盤で主人公に近づく新興宗教の娘はディックの強迫観念であった黒髪の少女を思わせ (もっともありそうもない人物がトゥレット症候群を知っているくだりもディック的だ)、 一見してジャンル的な都合のよい性的ファンタジーを装いながらも、 実際には障害者と寝てみたいという気まぐれだったことがほのめかされることで、 そのように利用される孤独や、 発達障害者が愛を期待すると決まって裏切られることがさりげなく語られ、 にもかかわらず深刻ぶるのではなく苦笑いであっさり受け入れるような度量が示されていて、 19年前にこのような本が出版されていたのだなぁといまさらながら感銘を受けた。 そして当時 「注目の若手俳優」 だったエドワード・ノートンが、 執念と変わらざる情熱で19年後のいま、 企画をついに実現したことをあとがきで再確認し、 ちょっと祝杯を挙げたいような気分になった。 あの頃のおれはいまのような未来を想像しなかった。 もっとずっと悪い可能性だっていくらでもあったのだ。 何もかも喪われたともいえるし何ひとつ変わらないともいえる。 ひとつだけいえるのはおれはまだ小説を書いているということだ。 『マザーレス・ブルックリン』 がなければ 『ぼっちの帝国』 もなかった。 『ぼっちの帝国』 を書いているあいだ何度もくりかえし聴いたYellow Days 『I’ve Been Thinking Too Hard』 に引用されているアラン・ワッツがここでも登場したことに因縁を感じる。 いま読み返すことに必然があった。 レセムに感謝だ。