こんな題名であるからして意図的に視覚的な描写がなされていたり、 プルーストみたいな意識の流れ文体をちゃかしてみたり、 内容からいってもほぼ同時代の 『郵便配達は二度ベルを鳴らす』 に極めてよく似ている。 性的資源とひきかえに年上の男を食い物にするくらいしか、 若い女に這い上がる手段がない世界。 そういう女を通じて他人につけいり破滅させて楽しむ若い男は、 チーピーなる人気キャラクターで一発当てた画家でもあるのだけれど、 このチーピーがどうも必ずしもプロット上の必然があるとは思えない。 プルーストのパロディにしてもそうで、 だから自分で英訳したときに削ったのかもしれない。 初期の作品だけあってプロットが明快で、 ストレートな娯楽小説として読めるのに、 ところどころにそういう歪な要素がまぎれこんでいて、 それがむしろ本筋よりもおもしろい。 チャンドラー顔負けの変てこな比喩やら、 発達性協調運動障害を思わせる運転下手の描写やら (ハメットも運転できなかったそうだ、 映画が当たったおかげで高価な車を所有していたというのに) は、 もちろん文体上の工夫やらプロット上の要請やらではあるのだけれど、 それだけではなしに著者自身のなんらかの発達障害を示唆するもののように感じられた。 フィリップ・K・ディックの 『小さな場所で大騒ぎ』 や 『戦争が終り、 世界の終りが始まった』 といった主流小説を連想させられもした。 というか、 ディックは普通に影響を受けてるんだろうな。 ディックもそうだけれど、 異常人格のいやなやつを描くのが、 ナボコフはとにかくむかつくほどうまい。 いるいる、 こんなやつ。 と思わされて苦い気持になる。 三人の異常者はそろいもそろってみんな最悪の屑だし、 そいつらに関わったせいでさんざんな目にあわされる家族は、 本当にただまっとうに暮らしているだけの善人で、 何もこんなひどい仕打ちをしなくたっていいだろう、 と著者を恨みたくなる。 まるで 「普通の人間」 に何か個人的な恨みでもあるかのようだ。 たしかに主人公も破滅するのだけれど、 彼は望んでそうなったのだからむしろ幸福と見なさねばならない。 昭和のお父さんたちのふるまいを見て育った子どもの頃は、 当時はそれが当たり前だったので、 中年男性はすべからくペドフィリアなのだろうと思わされていた。 自分がその年齢になってみると、 いや、 けっしてそんなことはない。 年の離れた相手を好むのはよほど幼稚なやつだけだし、 まして子どもに執着するのは精神異常だ。 そもそも性的欲求が人生の重要な部分を占めている時点で正常ではない。 そのあたりの生理的感覚でちょっとモヤモヤさせられたのだけれど、 しかし、 書名からしても作中における数々の描写からしても、 どうもこの主人公がわざわざ好きこのんで破滅の道を選びとったのは、 その妄念の生じた場所が映画館の闇であったからではないかという気がする。 バイト少女に対してというよりも、 映写機からの一条の光に浮かび上がった、 その瞬間の光景にやられてしまったのだ。 現実に存在しないものに執着して身を滅ぼす、 そういう強迫観念。 彼の職業を思えば、 じゃあしょうがない、 とも思えるけれども、 その幻想を現実に見出そうとする感性は、 やっぱりどうも説得力を欠く。 あるいはその瞬間こそが、 被害者の脳内であとからつくられた幻影なのかもしれない。 洗脳で、 あるいは子どものような加害者らに支配された自己を正当化する生存手段として。 『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』 の、 マンソン・ファミリーに食い物にされた農場主の描写を連想した。 サイコパスに生活に入り込まれ、 支配される事件は現代の日本でもしばしば報じられるところで、 いずれにせよ胸の悪くなる話には違いない。 よくできた小説ではあるけれど、 だからこそ読後感は最悪だった。