絶望

好きなものしか書きたくないそれ以外はどうでもいいという清々しいまでの強烈なこだわりで構築されたアーダとは真逆できらいなものが皮肉り倒される悪意に満ちた小説とりわけ同性愛嫌悪がひどくて読みすすめるのが苦痛だった村上春樹によく見られる、 「同性愛者としての自分を畏れる強迫観念がここでも取り上げられる同性愛嫌悪はないもののというかその種の差別にはむしろ敏感に反撥する作風ではあるけれどディックもまた鏡像ドッペルゲンガーに取り憑かれた作家で彼お得意の妄想と現実の描き分けというか、 「信頼できない語り手による一人称の主観でありながらそれが妄想であることを客観的に悟らせる技術はナボコフに学んだとしてもおかしくない幻覚が一瞬揺らいで現実が像を結ぶとか似ても似つかぬ無関係のものを混同するとか統合失調症的な描写で巧みに仕込まれた伏線はナボコフ自身が映画化を望んだという逸話も肯ける視覚的な演出でよく似た手法がディック作品ではヴァリス暗闇のスキャナーに見られるし映画でいえば近年話題になったジョーカー』 (題材やプロットもきわめてナボコフ的でもおなじ手法が使われている相手が目覚める前にホテルを去る場面や恨み辛みが書き綴られた手紙の描写はあまりに生々しい差別的なあてこすりに思えたそのように読めるべく意図されたことは作中で明確に言及される)。 ナチに反撥した作家がなぜナチとおなじ悪意をもちえたのか悪意があるならなぜここまで真実味のある描写をなしえたのか彼の弟なら理解できたのかもしれないがいずれにせよ作家とは複雑なものだ鏡像への関心であると同時にこの物語は、 『アーダがよくある通俗ロマンス小説からプロットを拝借したようによくある替え玉殺人ミステリのパロディでもあるそれも悪意そのもののパロディであって、 「そんなに都合よく似た人間がいるはずがなかろうという多くの読者が感じつつ言及しない不自然をあえてばか正直につっこんだらどうなるかという当時としては斬新であったに違いないギャグをやっている前作カメラ・オブスクーラの踏襲ないし発展であるとともに本書の連載と同年に刊行された郵便配達は二度ベルを鳴らすのちょうど裏返しでもある人物配置には通俗的な犯罪小説を嗤う意図があるのだろう諧謔による実験がエンターテインメントの技法を拡張するのを実感させられた一方でナチが台頭した時代さながらの不安がメディアによって煽られる昨今悪意や差別意識は現実だけでたくさんだよという気分にもなった