なるべく命を奪ったものを口にしたくなくて、 かといって金もないので選択肢も限られ、 食パン、 冷凍うどん、 納豆、 卵、 プロテイン、 野菜ジュース、 豆腐、 たまに二連パックのとろろや三連パックのめかぶといった食生活をしている。 イオンで八個700円以下のツナ缶も安いので選択肢に入れているが、 生臭いし生き物の遺体を潰したものだと思うとあまり食べたくない。 先日はバナナには小蠅が卵を産み付けているという話を読んでしまい、 さらに選択肢が減った。 マツキヨの激安ホエイが倍に値上がりして十年前の2kg入りWPI以上の価格になっていた。 いまだ馘首されていないのが奇跡なくらいで収入はもちろん倍になってはいない。 目の前が昏くなり店内で卒倒しかけた。 これから何を喰えばいいんだよと絶望した。 混ぜ物の多いサンドラッグの激安ホエイならと思ったがこちらは1.1kgから980gに目減りしていた。 ビッグテックと結託した政治家たちの戦争のおかげで何もかもが高騰している。 あいつらだけが大儲けして喰いものにされるおれらは干上がる一方だ。 それなのになぜだれもかれもが拍手喝采し自分もそちら側に属しているかに錯覚するのだろう。
おれが生き物を食べたくなくなったのは、 メディアを通じてあまりに多くの死を見聞きするようになったのと、 鳥や猫を飼っているひとたちから、 個性や感情の話をよく耳にするようになったからで、 生物学者の祖父も晩年に、 というか晩年にほぼ初めて会ったのだが、 動物が人間とおなじような魂を持つかに見えるとよく話していた。 おれにしてみても川縁を走るときすれ違う烏たちに人間以上に人間らしさを感じる。 こないだはまわりに人間がだれもいないのを確認した上で、 烏に挨拶したら烏はあきらかに動揺して、 キョロキョロとほかの人間の姿を探したあげくに、 おれを気味悪そうにふりかえりながら逃げていった。
生き物を殺害すること自体に抵抗があるわけではない。 魂を感じられるかどうかがおれにとっては大きい。 罠にかかった熊を (ほかに方法がないので) 溺死させたら自治体に苦情が殺到したという話を読んだ。 人間が顔を剥がれて腸を引きずり出されて殺害されるのは構わなくて、 そうした事態を防ぐために熊を殺害するのは許せないというのは、 どういう認知と思考なのだろう。 おれにはそちらのほうが非人間的に思える。 人間の顔を剥ぐことに独自のこだわりを持つ熊にも魂を感じない。 それらはAIやおれの父親とおなじような、 生き物を模倣したまがまがしい何かのように見える。 おれはコンビニやドラッグストアのレジのバイト学生に決まって差別されるのだが (先日はレシートを投げつけられた)、 権力を持つ男たちへの嫌悪や憎悪を弱い男へ向ける、 あの手の若い女なんかもだ。 AIは嘘をつくことにインセンティヴを与えずに訓練し、 フィジカルな感覚器官とのフィードバックによって人生のどうにもならなさを学ばせれば、 そうした魂のない人間よりもずっと人間らしくなるのではとおれは思う。
最近は 「生き埋め」 や 「下敷き」 を 「閉じ込められている」 と表現するんだな。 傷つけることを畏れて具体的に想像させまいとしているのだろう。 気遣いはすばらしいが、 逆に他人の痛みへの想像力を欠如させるのではないか。 無言の帰宅、 なんていいまわしに対して、 ただいまの挨拶もないなんて無愛想だと怒るやつがいると聞く。 冗談抜きでそんなやつが多すぎて会話するだけで疲れてしまう。
日本全国どこの地方都市でも画一的に供給され人生のすべての局面を依存しているインフラ施設が吹き飛ばされて灰色のがれきの山と化した光景に、 ガザやウクライナを重ねたひとも多いようだ。 都会の人間には想像もできないだろうけど、 ああいった大型複合商業施設は地方の人間にとって、 文明を体感させる場所なんだよな。 そこにいれば安心と思わせる。 いや、 むかしからその感覚はあって、 だからゾンビ映画の舞台になったりブルースブラザースが破壊したりするんだろうけど。 でもいまの日本の地方在住者にとってはそれ以上の重みがある気がする。 そのなかにいれば時代から取り残されていないかに錯覚できる、 地理的なハンディキャップなど人生に存在しないかに錯覚できる。 戦争と人食い熊と気候変動と地方格差の現実を忘れられる。 おれら地方在住者は今回、 それがまやかしだったことを実感させられたわけだ。 ウクライナがロシアのECモールの倉庫を狙ったのもそういう心理的効果を狙ったんだろうな。
15年前には車で流されたのは田舎に住んでいたからだと思えた大半の日本人も、 いまや人ごとじゃない。 ごくごく限られた特権的な都市を別にすれば現代の日本にはあのような商業施設しかない風景が広がっているからだ。 日本人の心象風景の歴史にとって震災と地下鉄サリンの1995年とおなじくらいの影響が残りそうな気がする⋯⋯と思ったが数日後にはあっさり忘れ去られた。 被災地の住民がろくな物資もなく、 ついたてもない体育館で性犯罪者におびえながら雑魚寝させられたり、 車中泊で熱中症で亡くなったりしているというのに、 都会にとってはすっかり過去の話題になった。 爆心地のあたりに入っていたテナントでは、 若い女性店員が年配男性の上司にレジの金を金庫に移すよう命じられて殺害されていた。 そういうことではないかとの噂が的中したわけだ。 遺体の損傷がどれだけであったかは報じられていない。 死者について明らかではなかった時点の生中継番組 (職場の休憩室で見た) で、 道路に飛散した瓦礫を平気で映しているのに仰天した。 うっかり人体の一部が映り込んでしまったらどうするつもりだったのだろう。
戦争について、 被災者に連帯することと国家を支持することがまるで別だってことを理解しないやつはほんとうに多いんだなと思う。 想像力が欠如しているのだ。 日本の大きな野外音楽フェスでイランの現政権の旗をかかげたやつはトゥーマジ・サレヒなんか聴いたことないんだろう。 イスラエルのAIによるノルマ消化の空爆で瓦礫の下敷きになったり吹き飛ばされてばらばらになったりする子どもたちを思い、 ガザ市民に連帯しつつも、 ハマスによる圧政や野外フェスの殺戮を憎み、 侵略やブチャの虐殺に憤り涙しながらもネオナチや汚職を批難し、 特殊部隊にポーランド人虐殺をたたえる称号を付与したことに怒り、 ドローンで爆殺されたロシア人の子どものために泣くことだってできるはずなのに、 なぜかこの世界では許されない。 わかりにくいからだ。 ニーズがない。
相模原障害者施設殺傷事件から十年の節目に、 出版社の公式動画が話題になっていた。 知的障害者の不幸を見たいという期待に応えます、 ポップに楽しめる作品ですと編集者たちが宣伝する内容だ。 差別や暴力の側に立ちますとその出版社は読者に公約したわけだ、 抗う側ではなく。 事件の翌年に新潟地方紙の元記者がおれを恫喝した嘲笑の言葉もまた、 事件をふまえてのものだった。 かれらの考え方は現代では少しも特殊ではない。 海外でネオナチめいた政治家が台頭してきて、 この国でもついに侵略戦争のために捏造された国家カルトを極端に美化して復活させようとするファシストが現れ、 でも日本人はそこまでばかじゃないはずだ、 さすがにキワモノ枠で終わるだろう⋯⋯と思っていたら日本中から熱狂的に翼賛されあれよあれよという間に首相にのぼりつめた。 今度は小学生に大人気の犯罪者が政治家になるという。 すでに好意的な反応が集まっていると聞いた。 生産性や効率で人間の価値が計られる時代だ。 それがニーズというものであり、 ニーズがなければ笑いものにされ淘汰される。 施設で殺傷された障害者のように。 有名大学を出て大会社に就職した高給取りの編集者たちは、 それをポップに楽しむ。 地方在住の読者の大半はかれらに喰い物にされる側だ。 というか、 かつては読者だったがもうそうではない。 そんな本しかなくなったから日本中の地方都市から書店が消えた。
おれは別の側に立って書いている。 そうしたいからではなく、 おれ自身が地方在住の知的障害者であり、 生産性がないのでニーズがなく、 嘲笑され排除されてきた側だからだ。 もちろんおれもまた無自覚にだれかを差別しだれかに暴力を振るってきたのだろう。 書いたものがそうなっている側面もきっとある、 でもポップに加害を楽しむために書いてはいない。 基本的に自分の経験してきたことしか書けない。 そのまま書いたらエンタメにならないし意味も通じないから、 極端に誇張したり別のことに置き換えたりする。 それでもどこかしら本物であることが伝わってしまうのか、 他人からは嫌悪され嘲笑され無視される。 『Cloud9』 が箸にも棒にも引っかからなかったのはそれが理由だ。 水木しげるは商才があったのでそうしたことをよくわかっていて、 戦争の話はつげ義春に描かせた。
抗う本は笑いものにされ淘汰される。 出版社は客を差別し排除する本しか出版しないからだれも書店で買い物をしなくなった。 そのような時代に出版社から本を出すことの意義はなんだろう。 そちら側に立っています、 ポップに加害を楽しめます、 古い地図を元に女子小学校を爆撃して憂さ晴らしできますという担保でしかない。 そう考えれば選ばれずに済んでよかったのかもしれない。 かれらの気に入るように書き直させられるなんてご免だ。 しかし元新聞記者の台詞、 かなりやべえと思うんだけど当時まわりで見ていたひとたちは何もいわなかったんだよな。 おなじ考えだったってことなんだろう。 そうしたひとたちを友だちと呼ぶことは、 おれにはできなかった。
