読んだのがずいぶん昔でうろ覚えなので、 ファンの方からは違えよと叱られそうだけれど、 どうせ自分しか読まない文章なので書いてしまうと、 かつて侵略を賛美する国策小説に太宰が応募し、 ヌケヌケと媚びて選ばれた。 灯台守の一家団欒を侵せずに死んだ遭難者の譬え話がそこに出ていて、 そいつのことを書くようなのが小説だという。 その理屈でいうなら出版と読書は死んだのだろう。 だれも自分のために書かれたと感じられる本に出会えなくなった。 書店にはキラキラした価値ある他人のための本しか並んでいない。 億万長者の利益のためにアルゴリズムが決めた価値だ。 庶民のおれらが読んでもつまらない。 指導者たちの戦争で物価は高騰し給料は上がらない。 祝福された他人のために貢ぐ余裕などない。 価値のない自分の生活で手一杯だ。 というわけでだれも書店に足を運ばなくなった。 宝文堂も高山書店も協同書店も金港堂も男子校の同級生が薔薇族を買っていた本屋も老舗書店は軒並み潰れ、 20年前には二店舗あったジュンク堂も撤退し、 近所の二店もヨーカドーごと廃墟になったり百均になったりして、 おれの街には駅ビルに一軒、 駅前に丸善ともう一軒、 地下鉄で数駅の副都心的なところに紀伊國屋、 あとは車でなければ行けない郊外に隣県資本の店ともう一軒があるのみになった。 このような未来を畏れて10年前、 出版に読者のニーズを取り戻す活動をはじめたら袋叩きにあった。 大勢が群がってきて躍起となっておれを潰した。 元新聞記者は群れに乗じておれを嘲笑し威圧した。 おまえには価値がない、 社会に求められていない、 だから笑いものにされ淘汰される⋯⋯と。 かれらのお望み通り出版と読書の文化は滅びた。 いまや結託した政治家と億万長者に都合のいい本しか流通しない。 そんなものをだれが読む? アルゴリズムに調教され洗脳された奴隷だけだ。 「焚きつけ」 とはなんとあからさまな商品名か。 焼け野原になった世界で何が読めるというのか。 おれらから搾取しおれらに爆弾を降らす連中のニーズであって読者のではない。 おれの思うところの小説は長い時間をかけて書かれ読まれ、 他者への想像力を養い、 人権や民主主義の意識を育むものだ。 長時間オフラインになって独自の考えを持たれては連中には都合が悪い。 代わりに人心に侵入したのはショート動画だ。 都合の悪い個人を淘汰して支配しやすい人間を量産する。 それが世間のニーズというものだ、 勘違いしてはならない。 おれは物語性のないもの、 迅速な適応を迫られるものが苦手なので、 注意を惹きつけられる意味が生理的に理解できないのだが、 子育てを億劫がる現代の親は、 背負った赤子に野良仕事を妨げられぬよう穴を開けたジュース缶を吸わせる昔の老婆のように、 幼い我が子にショート動画を与えて放置するのだそうだ (人間を産み育てる莫大な労力を惜しむのならなぜ子を成すのかこれもまた理解できないが、 とかく現代では対人コストが憎まれ排除され、 大富豪や政治家に都合のよいものに置き換えられる)。 かつて河川や海に垂れ流した化学物質による健康被害は企業の責任が問われたものだけれど、 子どもたちの脳が虫歯菌に冒され文明が崩壊したところで、 ビッグテックには今後もなんらお咎めはないだろう。 万民の掌中にある端末を支配し車を操り脳に配線し、 使い棄ての危険な宇宙ゴミを増やし続ける大富豪たちに文句をいうどころか、 便利になっていい、 適応できないやつはニーズがないから排除しろ、 文句のあるやつは黙らせろとさえだれもが思っている。 虐待されていた1980年代、 まわりはいい思いをしている子どもばかりだった。 あいつらは大人になってから苦労するんだ、 先に苦労したおれはいずれ楽をするんだと思って耐えた。 んなわきゃなかった。 いい思いをして育った子どもがいい思いをする大人になる。 狂った子ども時代を生きたら狂った大人になり、 満足に生きていかれない。 それだけの話だった。 唯一の楽しみだった読書さえもおれの人生からは奪われた。 ニーズがないから淘汰された。 遭難者を排除した焼け野原を眺めて、 おれを黙らせた連中はさぞかしご満足だろう。 民主主義の根幹を否定した世界がこの先どうなるか、 とくと見せてもらおうじゃないの。
