恋愛のくだり要る? というのが最大の感想。 発達特性が偏っているのは自分だけではないと思いたくてナボコフを読むのだが、 特有のエピソードは本作でもてんこ盛りで、 夢遊病で未来を幻視して妻を殺害し、 その経験を再現し追体験するために手の込んだ自殺 (油を撒いたのはだれか、 夢遊病の彼かもしれないし未知の第三者かもしれないし、 おれが読み落とした何かなのかもしれないけれど) をしたりといった、 夢遊病と既視感のはざまを行ったり来たりするような感性や、 唯一神であることをついうっかり忘れる聖書の神のような亡霊たちの語りは、 おれにはなじみ深いもので安心させられる。 おれも虐待されていた子ども時代、 たびたび夢遊病の発作を起こしていた。 成人してからは治まったはずだが、 眠るおれを観察しうる人間がいないので本当のところはわからない。 ルビー色の格子を通した光景、 といった比喩など、 実際に試した経験がなければ伝わらないし、 そのような個人的な経験を、 あたかも万人の共通認識であるかのように取り違えるところも発達障害らしい。 『ロリータ』 にも出てきたからよほどお気に入りのイメージなのだろうが、 そうした他人にはわからない着想に執着するあたりも 「おれだけじゃない」 と安心させられる感性の偏りだ。 しかし不可解なのは筋運びの配分だ。 『スワン家のほうへ』 のパロディめいた退屈さを耐え忍び、 プロット上の駒としての主人公 (実際の主人公は 「語り」 そのもの) が妻を殺害するくだりに達してしまえば、 ようやく意図が見えやすくなり、 夢遊病だの遺伝だのといった発達障害あるあるエピソードや、 光学的現象への偏執的な関心といったいかにもな感性を、 パズル的な仕掛けに転化するおもしろさを楽しめるのだが、 あいにくその時点で本は終盤に近づいている。 いかにもそこに作劇上の主眼があるかのような見せかけの恋愛エピソードは、 長編であれば商売上の魂胆から、 豊かに盛り込んでよかろうし、 『アーダ』 なんかではあまりにも露骨なやっつけ感とともに実際にそれをやっているが、 それはあの大長編だから成立したのであって、 この短さでは機能しないのが見え透いている。 普通なら削るか、 全体を厚くするかどちらかにしていたはずだ。 なのになぜこんな風に書いたのか、 単なる配分ミスではなく、 ナボコフは実際にあたかも定型発達者のように、 本気でなんの疑いもなしに書いたのではないかと思えて不安になる。 だったらそれはそれで仕掛けのほうが余計になり、 やはりなんだか腑に落ちない。 こういう違和感、 気持悪さをあえて残すのが作家のやり口なのかもしれない。
