この小説では愛のためにだれもがだれかに心を痛めている。 探偵は過去に穢された友人に、 友人は心のない妻と喪った過去に、 作家は妻の過去と秘められた暴力に、 妻は夫の不貞と暴力、 それに穢された想い出に。 傷つけ傷つけられ、 ふりまわしふりまわされ、 最後にはみんなおかしくなってしまう。 若い頃ずっとこれは村上春樹が訳すべきだと夢想していて、 叶ったとき、 清水訳で20回読まないとわからなかったことが一遍でわかるようになった、 と喜んだものだった。 それが田口訳ではより鮮明に、 明瞭になった。 清水訳では人形のようで、 村上訳でもまだどこか掴みどころのなかった作家の妻が、 呼吸をし汗をかき身勝手な動機につき動かされる生身の女として、 活き活きと感じられる。 NHKのドラマ版もおなじ意味でよかった。 作家の妻が現れる場面が、 男たちの性的な視線から噂好きの女たちの冷笑に置き換えられていたり、 小雪演ずる作家の妻が、 少女のように病的に幼い立ち振る舞いをしていたりと、 かつては男たちのロマンチシズムとして歪曲されがちだった物語が、 女たちの人生を感じさせるものとして語りなおされていて好ましかった (大道具はパソコンから出力されたフォントがめだち、 雰囲気を損ねていたが⋯⋯)。 あのドラマにせよ今回の新訳にせよ、 ああこの物語はそういうことだったのかと思わされた。 清水訳ではじめて読んだのは三十年前。 探偵と、 かれを逃避の道具立てにしようとする女とは、 どちらも両親ほどではないにせよ遥かに歳上で、 想像もつかぬほど遠い大人の世界に思えた。 気まぐれな旅と結婚に誘う女も、 その動機を見透かして拒む探偵も、 自分がだれとも生きられない種類の人間であることを知る前の十代の子どもには、 難しすぎた。 いまではかれらの言葉も心情も、 不器用でひたむきな若さもわかる。 そして探偵が友人をいちどは酒場で、 二度目は何もかも変わってしまった再会であらためて拒絶する理由を、 ようやく理解できたように思う。 探偵と友人はともに戦争を経た暴力の世界に生きていて、 鏡のような、 双子のような存在であったけれど、 探偵は最後には人間の側にとどまることを選んだのだ。 チャンドラーは著作権保護期間が切れたらしく、 今後もさまざまな翻訳がでるだろう。 舞城王太郎による全訳を個人的には期待したい。 青玉楼主人さんの考察も興味ぶかく、 お薦めだ。
