正直なところナボコフのような化物級の天才も、 デイヴィッド・フォスター・ウォレスほどの技量もどちらも感じないし、 彼らのような、 読者を笑わすことへの尋常ならざる熱意もみられない。 技法上の意匠についても、 小説を読み慣れていない読者なら驚くかもしれないけれど、 さして珍しい手法ではないし、 うまく機能してもいないように感じられる。 「既存の小説の枠組みを破壊して新しい文学の創造を目指し」 たというよりは、 どちらかといえば、 そのような宣伝文句を適用しやすい既存の技法や枠組が上手に用いられた印象だ。 が、 帯文が何をいいたいかはわかる。 ある種の暴力の加害者側に立つかのように読めるべく意図して視点が操作された小説なのだ。 登場する男はいずれも他者への共感能力をいっさい持ち合わせず、 世界に対して独善的で偏った認識をし、 ときに人間や動物が虐げられる事象に極端な反応を示しながらも、 それは単に強迫的な発作として描写されるにすぎない。 男たちはその欠陥を母親なり恋人なりがまるごと受け止めてくれるのを当然とみなし、 虐げられることを喜んで受け入れるのが愛情というものであり、 その愛情を受ける価値、 すなわち加害する価値が自分にあるのだと信じて疑わない。 女性を自分に隷属する所有物と捉え、 感情や人権や独立した人生を持つひとりの人間であることを許さない。 だから身勝手な自己愛に基づくその世界観が少しでも裏切られると、 それを自分の価値を毀損しようとする攻撃とみなして、 『インフィニット・ジェスト』 に登場する社会病質さながらの暴力をふるう。 その暴力が明確に強迫傾向と関連づけられるところからも技巧上の意図は明らかだ。 無邪気に虚構として愉しむには気の重い小説だった。 それこそがまさに意図された仕掛けではあるわけだし、 だからこそあの惹句なのだろう。
