十数年ぶりに再読。 意匠としてはSFなのだが人物描写や、 重要な事実を知らされないがためにすれちがう男女といった手管はまぎれもない恋愛喜劇で (惚れっぽすぎて70歳から17歳まで見境なしの主人公と、 のんびり屋で 「母性的」 な親友、 それぞれの恋愛の顛末が動物的すぎる)、 プロット構成はクラシックな味わいのある叙述ミステリであり (作中でたびたび言及されるアガサ・クリスティは数作しか読んだことがない)、 どちらかといえばそれらの色合いが濃く、 そうした巧みな技術ゆえに、 おもしろいかつまらないかでいえば大変おもしろかった。 内容をすっかり忘れていた後編下巻はとりわけ夢中になって読めた。 だがそのおもしろさこそが曲者で、 そうしたものに善良な庶民とやらが乗せられた挙げ句の地獄がナチスであり大日本帝国であったわけだ。 ソーシャルメディアやAIやトロール工場や議会襲撃事件をいまだ経験しない米国人によって書かれたこの小説は、 「物語」 が本質的に持つそうした危うさにあまりに無自覚で、 ずっと苛々させられ通しだった。 アウシュビッツには触れても南京や731部隊は無視する、 広島には言及しても長崎は忘れるその態度にすべてが表れている。 安全に過去を観察するはずが巻き込まれて⋯⋯という筋立てからして、 そもそもが 「そこにはいないひと」 の態度なんだよな。 登場人物の不安は、 殺されたり強姦されたりといった奪われる恐怖ではなく、 「歴史」 を変えるかもしれない、 という荒唐無稽な強迫観念でしかない。 勝者の歴史観にすぎないものを神の意志であるかのごとくに語る傲慢さでスリルを維持するのは作劇法としても筋が悪いし、 それが許されると信じていられる浅薄な甘えにあきれかえる。 ひとの生死へのかかわりかたが終始、 正義の側、 という安全な高みからの傍観でしかない。 大地震で壊滅した街で記念写真を撮る観光客さながら。 かつてそこにいた人間、 いままさにそこにいる人間に失礼だ。 「英雄」 なる主題で甘ったるい恋愛喜劇をいかにも勇敢そうに演出するけれど、 そんな切口で戦争を語るのは根本からまちがっている。 暴力の場に英雄なんていない。 戦争はひとさまの土地や家や財産や、 そこでの暮らし、 人生、 命を奪うものだ。 そこには正しさも英雄もない。 ただ暴力があるだけだ。 奪われ虐殺された側がよその土地で奪う側にまわり、 奪われたことを口実に虐殺する正当な権利があると互いに考え、 奪い虐殺した男たちではなく奪われた女たちや子どもたちが万単位で虐殺されるこの時代に、 十数年前に出版されたこの小説はいかに愚かしく、 単純で、 幼稚に映ることか。 ナチスは絶対悪だった、 それはそうだ。 だから連合国は正しいことをした、 そうかもしれない (あんたがそういうなら)。 だが英雄? やりがい? 顔が輝いている? なんとまぁロマンチックな恋愛喜劇ですこと。 おれはそんな都合のいい 「物語」 のために殺されたくない。
