何か書いてもらったらすごいんじゃないかなと半年くらい前に思っていたひとをひさしぶりに見に行ったら、 インターネットで観察したつまらない相手を上から目線で嘲笑うだけのよくわからないアカウントになっていた。 哀しかった。 タイミングを逃すとそういうことになるのかもしれないし、 声をかけようか迷った末にあきらめた相手にはあきらめるだけの理由があったということなのかもしれない。 だれに認められなくともわたしはわたしであり、 だれにも読まれぬのに自発的に書きだして、 そして書きつづけているので、 あるいはその辺に差があったりもするのかもしれない。 才能をつまらない悪口に費やすばかりで、 他人に求められなければ書かぬようでは所詮、 書かぬ人間に属するということなのだろう。 でも、 才能を見出して書かせることに意味がないのだとしたら編集者の役割ってなんなのだろう。 それに何より本物なら金にならずとも書くのが当然という考えは危険だ。 それはやりがい搾取でしかない。 わたし自身にしても 『ぼっちの帝国』 が評価されるどころかつまらないやつに呼び出されて笑いものにされたことでがっくりきて、 それで今年は170枚程度しか書けなかった。 日記も含めればたぶん500枚は書いたろうけれど、 それをいえば去年は千枚は書いていた。 柳楽先生やイシュマエル氏のすばらしい作品に出逢えたから今年やってきたことはまったくの無駄ではなかったと思う、 というか思いたい。 しかし金も出さずに書いてもらおうとする厚かましさを今後もつづけるのかわからなくなった。 諸屋さんはお願いすれば書いてくれるけれど、 原稿料も出せないのにお願いすることがだんだんつらくなってきた。 若林さんはたぶん新人賞のために書くことにしたのだろう。 評価経済における優劣を競う場であるtwitterは今年、 新型コロナの影響でさらに悪しきものへと変容したように思う。 震災がスマートフォンとtwitterの利用者を増加させたのと似た変化だが今度のはひどい。 もとより評価経済のマウント・ゲームは自己愛の強すぎる人間が他人を貶めることで現実の境遇との落差を埋めようとする手段に利用されてきた。 暴力や偏見や悪意と正常化バイアスは結びつきやすい。 そのことにつけ込むカルトや政治家や広告代理店がおかしな方向へユーザを扇動している、 というかそもそも日本版twitterは運営会社の大株主が、 自民党とつながりの深い大手広告代理店なので、 意図的にそうした表示をしてしかも成功している。 見せられたものを疑う習慣が日本人にはない。 疑わぬよう教育されている。 権力者によって見せられたものが世界のすべてだ、 正しい世界のありようだと信じるよう教育されている。 物事を見分けたり論理的に考えたりするのは罪だ、 個人として主体的に考え行動するのは罪だと教育されている。 そうしたやり口をお隣の国家に学ぼうとする連中がそこで暮らすひとびとを躍起となって貶めたがるのはまったく滑稽なダブルスタンダードだ。 洗脳された集団がわたしの街でもプラカードを掲げて拡声器で新型コロナは陰謀だ、 トランプは英雄だ、 twitterで検索して正しい情報に触れようと訴えていた。 この国で小説を書いて出版するのはもう無理なんじゃないかなという気がしてきた。 最低限の教育が機能していないがために幼稚な迷信やカルトのようなものばかりが幅をきかせて、 そうでないものは表示機会が制限されたり、 洗脳されたひとびとによって貶められたりするようになった。 そんな社会では何をやってもだめだ。 以前は生理的に受け入れられないものに気を遣って目をそらし、 いいところだけに目を向けるようにしていたけれど、 なんだかもう疲れた。 もうむりという気持になった。 生理的にむりなものは拒否するか、 もしくは逆にだれでも投稿できるようにするか、 どちらかなのだけれど、 後者にしたところでだれも投稿しないのはわかっている。 柳楽先生のエッセイはよく読まれているけれど、 だからといってサイトの読者が増えるわけではない。 ましてわたしの本が評価されるようになったりはしない。 柳楽先生の訳業が出版社に見出されるのに少しでも役立てば⋯⋯と期待しているのだけれど、 そのためには人格OverDriveでは力不足すぎる。 柳楽先生やイシュマエル氏のような優れた書き手を集めれば、 相乗作用でそれぞれの作品が見出される機会が増えるのではと夢見たのだけれど、 どうも現状ではそれぞれが別個に閲覧されて終わっている。 そして流入経路や読まれ方を観察すると結局のところソーシャルメディアでの
何もしなかった一年が終わる
連載 第295回
