30年ぶりに読み返した。 こんな小説だったとは。 読めてなかっただろうな、 とは思っていたけれど予想以上。 同じ本について他人と話が噛み合わないことがよくあるけれど、 「読めない」 ってこういうことなんだと過去の自分を通じて改めて理解した。 ナボコフは変質者の心理を描くのが異常にうまい。 ただ真実味があるだけではない。 歪んだ認知の一人称で語っていながら、 それを通じて読者に、 その向こう側にある本来の現実を伝えることのできる文体なのだ。 読み返すまでは子どもへの性暴力を正当化する側から書かれたかのように誤解し、 「にもかかわらず」 傑作であることに居心地の悪さをおぼえていた。 実際はそうではなかった。 加害者の自己愛や欺瞞、 被害者の絶望と無力感、 そういったものが冷徹に記述されていた。 虫のいい認知の歪みも含めて、 何もかも客観的で正確な描写だった。 被害者がわずかな自由を舞台上の架空の生に見出そうとして、 周囲からも才能を期待されたのに加害者によって無残に踏みにじられ、 諦めさせられて、 人生に何も期待できないことを思い知らされるくだりは、 若い日の経験と重なって他人事とは思えなかった。 大人の女性に相手にされない変質者が、 その揺り戻しとして、 容易に蹂躙することのできる子どもへの執着を募らせる流れが何度もくりかえされる。 興味深いのは結末に至るくだりが明確に加害者の妄想として処理されていた点だ。 これはロシア語版との比較が注釈として付されていたおかげで理解できた。 日付によって明示されるばかりか念押しのごとく、 夢の中、 という言葉がくりかえされる (ただしどこで逮捕され 「鑑定用の精神病棟」 に入れられたのか、 どこから幻想なのか明確な境目はわからなかった)。 結末では加害者が、 これは現実にはありえないことだが、 被害者の人生を踏みにじった罪の重みを自覚する。 そういう意味では勧善懲悪に近いプロットにもなっている、 被害者が惨めな人生を惨めなまま終えるのでだれも救われはしないが。 『郵便配達は二度ベルを鳴らす』 の出版は1934年。 数年後の映画化と同時期に、 『ロリータ』 の原型となった 「魅惑者」 が書かれている。 直接の関係はないにせよ流行としてはそのような時代だった。 ナボコフが通俗ノワールのプロットを手管として意識したり、 そのような文脈で読まれたりした部分は少なからずあったのではないか。 「ある査読者の意見」 のいう 「短くて強烈に 『リアリスティック』 な文体」 というのはケインのような文体をほのめかしている (そしてナボコフもそのことを理解しおもしろがっている) ように思われた。 通俗的なノワールや異常者向けポルノからプロットを借用し、 そうしたジャンル小説の 「娯楽」 性も手管として成立させておきながら、 それを用いてこのように豊かな傑作を書いた。 小説ではこのようなこともできるのだ、 と改めて感心し、 昨年の映画 『ジョーカー』 はやはりナボコフ的な物語だったと思い返した。 短編 「魅惑者」 はそれほど感心しなかった。 プロットには起伏がないし技巧もそれほどではない。 登場人物も 『ロリータ』 ほど活き活きしては感じられず、 文体にも言葉遊びの渦に引きずり込まれるような魅力はない。 習作とまではいわないが将来の跳躍のための技術的な試行錯誤のひとつ、 といった印象だった。 内容的にはノワールよりホラーに近く、 プロットの単純さゆえ醜悪さはより際立って感じられた。 異常者の心理を探究するその踏段があったからこそ、 執筆の一年前に報じられた醜悪な事件との化学反応で、 真の傑作が生まれたのだと思う。 自己愛的な変質者によって人生が踏みにじられる寓話をいま読むのは、 人権を憎む為政者らによって生命と暮らしが脅かされる昨今、 あるいは適切なタイミングだったのかもしれない。
