衛星通信機器を一方の勢力にあたかも慈善であるかのように格安で提供し、 使いつづけるための大金をあとから要求するのは、 商売としては当然だけれども武器商人みたいに見える。 アパルトヘイトで成り上がった家の出の富豪が、 ハインラインの 「月を売った男」 になりたがるのは理解できる。 SFとカルトは相性がいいんだよな、 サイエントロジーとかオウムとか。 Qアノンもその類いだ。 「武器商人」 にとってはさぞかしエキサイティングな時代だろう。 民主主義は歪めればポピュリズムとなる。 扇動されたひとびとの血は商人たちを肥やす。
二年ほど運用したMastodonサーバを今年の春にやめた。 直接の理由は円安。 セキュリティや責任にしても手間にしても、 複数のサイトを管理するのはめんどうだし、 人格OverDriveにソーシャルメディア機能を実装したところで利点はさほどない。 リスクと汎用性を天秤にかけるとTwitterでいいじゃんとなった。 もしまたやるとしたらホスティング業者の手は借りずに自力でたてる。 いまは人格OverDriveに注力したいし次の小説もある。 何よりMastodonはいろんな意味でおれにはtoo muchだった。 重いし金がかかるし管理を丸投げしたので自由度がないし。 とりまわしの楽さ加減でいえばGNU Socialだ。 レンタルサーバで簡単にインストールできて運用もWordPressより楽だ。 でもあれはUIが古すぎる。 Mastodonのほうが重くても自由度がなくてもまだマシと感じた。
人格OverDrive + BuddyPressがいちばん使いやすいのは経験上わかっているけれど、 よそと行き来ができないので汎用性がなさすぎる。 だれも使わないし、 外に広がっていかないからソーシャルである意味がない。 ActivityPubで通信したところでコメント欄がなければRSSフィードと大差ない。 あれきらいなんだよ、 一度配信されたら書きなおす前の文章が読まれるから。 そう考えると人権や民主主義と相容れないプラットフォームを使いつづけるのが最適解な気がした。 汎用性のための必要悪だ。 かつては本の感想を連投してアカウント開設の三十分後に凍結されたりした。 一方でおれへの脅迫や人格否定は野放しだ。 人権侵害に苦情を申し立てても無視され、 本の感想は凍結される。 顔の知れた武器商人がやってくる前からそうだった。 格差を増大させその落差をエネルギーにする、 プラットフォームは本質的にそういう商売なのだ。 いまは出し抜く書き方を学びつつある。
この日記に何度も書いてきたように、 議会襲撃事件は民主主義の混乱と弱体化をねらって人為的にひきおこされた動きの、 雪だるま的に波及したあげくのフラッシュクラッシュだったと考えている (これもある種の陰謀論だけど根拠がないわけじゃない)。 もちろんそこにも増大する社会格差へのひとびとの不満がかかわっている、 1930年代のドイツのように。 武器商人らは格差を増大させ、 切り棄てられる側がなぜかそれを拍手喝采する。 ひとびとは騙されるのが好きだ。 何もかも決めてもらえるから。 自由とは何もかも自分で選びとることで、 その選択に責任を負うことだ。 責任を負う権利こそが自由であって、 それを多くのひとびとは好まない。 権利を放棄してわかりやすい物語に身を委ねるほうが、 圧倒的に楽なのだ。 かくして富豪は祭り上げられ、 また別の富豪が加担してボロ儲けする。 世の中はそういう連中に都合よくできている。
公的な組織がきめたイベントではなく、 市井のひとびとから自然に生じた動き。 議会襲撃事件は論外として、 そういう価値観が醸成されつつあること自体は好ましく思える。 現時点ではそれが生じて広まる場が、 営利企業のプラットフォームであるために、 かれらの思惑が作用するのは否めない。 まだひとびとが権力に管理される発想から抜け出せておらず、 主体的に責任をもつ自由が浸透していないために、 ときとしてアルゴリズムに操作された場所へ、 やりっぱなしで殺到したりする。 侵略戦争とそのあげくの自滅はポピュリズムが招いた (この比喩はかつての日本についてとも、 いまのロシアについてとも取っていただいて構わない)。 そういう意味では韓国の事故もまた議会襲撃事件とおなじく、 プラットフォームの招いたフラッシュクラッシュだったといえる。 ハロウィンが終わったあとの街にはゴミが散乱していると聞く。 一箱古本市はたぶん、 そうではない (どちらも行ったことないから知らんけど)。 楽しみのために集まるひとびとが、 安全に楽しむための責任も意識している。 そのあたりに何かこれからの社会へのヒントがあるような気がする。
